VOL.72「優しい残酷さ」

2011/02/09

正しい言葉や優しい言葉は残酷さを秘めている。

私は高校2年生になるとき親の転勤で兵庫県から東京の学校に転じた。
小学校は東京だったので言葉の違和感もなくすんなり周囲に溶け込んだ。

困ったのは体育の授業だった。
体操の選手だったという教師のもと生徒はみんなフツウに地上転回やバク転などをやっている。

私は運動神経が劣っているという自覚はなかったし、みんな当たり前のように気軽にやるので自分もできると錯覚して列に並んだ。
元気よく助走をつけてマットに両手を突くまではよかったが、気がついたら教師の目の前で仰向けのまま失神状態になっていた。

それ以後、先生の言葉が私にだけいつも優しくなった。
数週間後、「今日はテストだからキミは僕の言った点を書き込んでくれませんか」とペンと名票を渡された。
わたしはみんながマットの上で次々に鮮やかに回転するのを見ながら、先生が8とか9とか言う数字を書きこんでいく。
全員が終わったところで、私はおずおずと「先生、ボクは?」と言い終わらないうちに、「手伝ってくれてアリガトウ。
キミはやらなくてもいいからね・・・」とアッサリいわれた。
たしか評価は6だったような気がする。

生来私は鈍感にできていて、何を言われてもカエルの顔に水といった調子で生活していたが、この時ばかりは先生の優しい言葉と仲間たちの柔らかな視線が私の心を暗い闇の中に押し入れたように感じた。
点を書き入れたお駄賃が6であり、本来なら2か3のところを助けてくれたのである。
だからといって憐れみを拒み、「先生、ボクもテストをやってください」と胸を張って抗議するような勇気もなかった。

結果的には優しさの恩恵に浴したが、同情や憐憫の対象になった自分を潔く受け容れることはできなかった。

教師になって、こうした能力の差が歴然と出てしまう場面に幾度となく遭遇した。
かつての哀しい体験がトラウマとなって、私は力の劣る生徒への対応に躊躇することが度重なった。
「情けが仇」にもなることを承知しながら、正しい言葉も優しい言葉も自然体で言えるまでにはかなりの歳月を要した。

2011/2/9 彦井 脩

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